2013年4月25日木曜日

[創作]鏡淵

常陸の国の北方を流れる里川。
のどかな田園を潤す清流の奥深くに、大きな大きな淵がある。
日夜途切れることなく大量の水が流れているのだが、その水面は決して波立つことなく、いつでも鏡面の如く静まり返っていることから「鏡淵(かがみふち)」と呼ばれている。
思わず屈み込んで覗いてしまうから「かがみっぷち」だ、ともいわれるだけあって、水はどこまでも青く澄みきっているが、深すぎて底が見えない。
あまりの水量と流速に潜る者もないので、どれほど深いのか誰も知らない。
しかし、遥か昔のこの淵は、つねに激流逆巻く難所中の難所であった。
いまは穏やかな里川も手のつけようのない暴れ川であったという。
それがいつから「鏡のよう」になったのか。

・・・

鏡淵のかつての呼び名は「龍が淵」。
その淵には龍が棲んでいると噂されていた。
そして龍が淵から流れ出る里川は、大雨のたびに付近に洪水を引き起こしていた。
ある年、これまでにない大きな氾濫で、村や田畑が全て残らず流された。
人も流されて何軒もの弔いが出た。
この大水で食い詰め、困り果てた村人たちは、ついに里川の主たる龍を鎮めるために、龍が淵に生け贄を捧げることにした。
選ばれたのは「りう」という若い娘だ。
まだ十四だった。
りうは捨て子だ。
龍が淵の岸に生える柳の根方に置き去られていた赤子を、村人が拾って育てた。
だから、りうはやはり龍の娘だ、龍神様が我が子を返せと怒っている、と言い出す者がいたのだ。

儀式の日、淵を見下ろす崖縁に立たされたりうは、懐に鏡を一枚忍ばせていた。
りうを育てた老夫婦が、せめて冥土の魔除けにと、こっそり持たせてくれた。
俄に風が吹き、搔き曇る空。
昼とは思えぬあたり一面に、地響きの如き雷鳴が轟く。
やがて、底知れぬ淵の激流をかきわけて、巨大な龍が現れた。
龍は大きく伸び上がると、崖の上で背を向けて震えているりうに、顔を見せろと吠えた。
りうは恐怖と悲しみで体が凍りつき、身動きできない。
やっとの思いで懐から鏡を取り出し、怖々と背後を覗き見た。
雷光一閃、世にも恐ろしい龍の姿が、鏡に映った。
そのとき龍の目には、鏡の中に蒼白いりうの顔が、はっきりと焼き付いた。
その美しさに目を奪われた龍は、りうの映った鏡を奪おうと水から飛び出し、りうに襲いかかった。
りうはあまりの恐ろしさに、手にした鏡を龍に向かって投げつけた。
龍の鼻先に跳ね返った鏡がきらきらと輝きながら白泡の渦巻く水面に落ちてゆく。
龍はものすごい唸りを上げ、その鏡を追って反転すると、深い深い淵に飛び込んだ。
そして、二度と姿を現すことはなかった。

以来、淵の流れは鏡のように静まり、里川の氾濫はぴたりと収まった。
いつしか龍が淵は、鏡淵と呼ばれるようになった。

いまでも年に数度の大雨の日には、川床を転がる大石がごとりごとりと低く不気味な音をたてる。
それは暗い淵の底で、稲光をたよりに鏡を探す龍の足音なのだそうな。

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