2013年4月26日金曜日
Jacobs Ladder(ヤコブの梯子)
天気予報で「昼間は晴れ、午後3時から6時の間に風向きが変わり、一部で強い風雨」と言われていた今日。その予報は見事的中し、朝から眩しいほどに晴れていた空が、3時頃から一気に暗くなった。このあたりはどこでも空が広いから、彼方から押し寄せてくる暗雲のスケール感もすごい。
やがて低い空を雲が覆いはじめると、その隙間から射す陽光が見事な"Jacobs Ladder"をつくった。久しぶりに見る天使の階段だ。ここまでくっきり見えることはそうそうない。
せっかくだから写真に収めておこうと思ったけれど、こういうときに限って珍しく街中にいたので、通り沿いの建物が邪魔になる。どうしていつものように田んぼか河原にいないのかと恨めしく思いながら、できるだけ見晴らしの良いところへと急いだが、ぼくよりも雲の動きのほうがずっと速くて、どんどん梯子が消えてゆく。もうここが限界と、コンビニの駐車場の奥まで駆け込んで、iPhoneのシャッターを切った。最初に見えていた梯子は両裾がこの写真の視界の倍ほどの幅まで広がっていたのだけれど、考えてみたらこの視野角では、到底画面に収まらなかった。
じつはこの何時間か前に、まだ晴れていた空を見上げていて、何やら不可解な飛行物体を目撃していたものだから、ああやっぱり宇宙人きたな、などとふざけていたわけだが、科学的な知識のない時代の人でなくとも、こんな光景にはあれこれ空想を膨らませたくなる。
空と、その先の宇宙への興味は、いくつになっても尽きることがない。
2013年4月25日木曜日
[創作]鏡淵
常陸の国の北方を流れる里川。
のどかな田園を潤す清流の奥深くに、大きな大きな淵がある。
日夜途切れることなく大量の水が流れているのだが、その水面は決して波立つことなく、いつでも鏡面の如く静まり返っていることから「鏡淵(かがみふち)」と呼ばれている。
思わず屈み込んで覗いてしまうから「かがみっぷち」だ、ともいわれるだけあって、水はどこまでも青く澄みきっているが、深すぎて底が見えない。
あまりの水量と流速に潜る者もないので、どれほど深いのか誰も知らない。
しかし、遥か昔のこの淵は、つねに激流逆巻く難所中の難所であった。
いまは穏やかな里川も手のつけようのない暴れ川であったという。
それがいつから「鏡のよう」になったのか。
・・・
鏡淵のかつての呼び名は「龍が淵」。
その淵には龍が棲んでいると噂されていた。
そして龍が淵から流れ出る里川は、大雨のたびに付近に洪水を引き起こしていた。
ある年、これまでにない大きな氾濫で、村や田畑が全て残らず流された。
人も流されて何軒もの弔いが出た。
この大水で食い詰め、困り果てた村人たちは、ついに里川の主たる龍を鎮めるために、龍が淵に生け贄を捧げることにした。
選ばれたのは「りう」という若い娘だ。
まだ十四だった。
りうは捨て子だ。
龍が淵の岸に生える柳の根方に置き去られていた赤子を、村人が拾って育てた。
だから、りうはやはり龍の娘だ、龍神様が我が子を返せと怒っている、と言い出す者がいたのだ。
儀式の日、淵を見下ろす崖縁に立たされたりうは、懐に鏡を一枚忍ばせていた。
りうを育てた老夫婦が、せめて冥土の魔除けにと、こっそり持たせてくれた。
俄に風が吹き、搔き曇る空。
昼とは思えぬあたり一面に、地響きの如き雷鳴が轟く。
やがて、底知れぬ淵の激流をかきわけて、巨大な龍が現れた。
龍は大きく伸び上がると、崖の上で背を向けて震えているりうに、顔を見せろと吠えた。
りうは恐怖と悲しみで体が凍りつき、身動きできない。
やっとの思いで懐から鏡を取り出し、怖々と背後を覗き見た。
雷光一閃、世にも恐ろしい龍の姿が、鏡に映った。
そのとき龍の目には、鏡の中に蒼白いりうの顔が、はっきりと焼き付いた。
その美しさに目を奪われた龍は、りうの映った鏡を奪おうと水から飛び出し、りうに襲いかかった。
りうはあまりの恐ろしさに、手にした鏡を龍に向かって投げつけた。
龍の鼻先に跳ね返った鏡がきらきらと輝きながら白泡の渦巻く水面に落ちてゆく。
龍はものすごい唸りを上げ、その鏡を追って反転すると、深い深い淵に飛び込んだ。
そして、二度と姿を現すことはなかった。
以来、淵の流れは鏡のように静まり、里川の氾濫はぴたりと収まった。
いつしか龍が淵は、鏡淵と呼ばれるようになった。
いまでも年に数度の大雨の日には、川床を転がる大石がごとりごとりと低く不気味な音をたてる。
それは暗い淵の底で、稲光をたよりに鏡を探す龍の足音なのだそうな。
のどかな田園を潤す清流の奥深くに、大きな大きな淵がある。
日夜途切れることなく大量の水が流れているのだが、その水面は決して波立つことなく、いつでも鏡面の如く静まり返っていることから「鏡淵(かがみふち)」と呼ばれている。
思わず屈み込んで覗いてしまうから「かがみっぷち」だ、ともいわれるだけあって、水はどこまでも青く澄みきっているが、深すぎて底が見えない。
あまりの水量と流速に潜る者もないので、どれほど深いのか誰も知らない。
しかし、遥か昔のこの淵は、つねに激流逆巻く難所中の難所であった。
いまは穏やかな里川も手のつけようのない暴れ川であったという。
それがいつから「鏡のよう」になったのか。
・・・
鏡淵のかつての呼び名は「龍が淵」。
その淵には龍が棲んでいると噂されていた。
そして龍が淵から流れ出る里川は、大雨のたびに付近に洪水を引き起こしていた。
ある年、これまでにない大きな氾濫で、村や田畑が全て残らず流された。
人も流されて何軒もの弔いが出た。
この大水で食い詰め、困り果てた村人たちは、ついに里川の主たる龍を鎮めるために、龍が淵に生け贄を捧げることにした。
選ばれたのは「りう」という若い娘だ。
まだ十四だった。
りうは捨て子だ。
龍が淵の岸に生える柳の根方に置き去られていた赤子を、村人が拾って育てた。
だから、りうはやはり龍の娘だ、龍神様が我が子を返せと怒っている、と言い出す者がいたのだ。
儀式の日、淵を見下ろす崖縁に立たされたりうは、懐に鏡を一枚忍ばせていた。
りうを育てた老夫婦が、せめて冥土の魔除けにと、こっそり持たせてくれた。
俄に風が吹き、搔き曇る空。
昼とは思えぬあたり一面に、地響きの如き雷鳴が轟く。
やがて、底知れぬ淵の激流をかきわけて、巨大な龍が現れた。
龍は大きく伸び上がると、崖の上で背を向けて震えているりうに、顔を見せろと吠えた。
りうは恐怖と悲しみで体が凍りつき、身動きできない。
やっとの思いで懐から鏡を取り出し、怖々と背後を覗き見た。
雷光一閃、世にも恐ろしい龍の姿が、鏡に映った。
そのとき龍の目には、鏡の中に蒼白いりうの顔が、はっきりと焼き付いた。
その美しさに目を奪われた龍は、りうの映った鏡を奪おうと水から飛び出し、りうに襲いかかった。
りうはあまりの恐ろしさに、手にした鏡を龍に向かって投げつけた。
龍の鼻先に跳ね返った鏡がきらきらと輝きながら白泡の渦巻く水面に落ちてゆく。
龍はものすごい唸りを上げ、その鏡を追って反転すると、深い深い淵に飛び込んだ。
そして、二度と姿を現すことはなかった。
以来、淵の流れは鏡のように静まり、里川の氾濫はぴたりと収まった。
いつしか龍が淵は、鏡淵と呼ばれるようになった。
いまでも年に数度の大雨の日には、川床を転がる大石がごとりごとりと低く不気味な音をたてる。
それは暗い淵の底で、稲光をたよりに鏡を探す龍の足音なのだそうな。
2013年3月30日土曜日
前略、坂口良子様。
あなたが27日に亡くなっていた、と今朝のニュースが告げました。
あまりに唐突な、とても悲しい出来事です。
それを結構引きずって、今日一日が過ぎました。
10代のぼくは、アイドルとか歌手とか女優とか、ほとんどまったく興味がない少年だったけど、あなたとオリビア・ニュートン=ジョンだけは別でした。
なぜだろう。
なぜだかわからないけど、雑誌やテレビであなたを見ているだけでぼくは幸せになれました。
あの頃から何十年過ぎても、かわいいものはかわいいです。
今でもあなたを見ているだけで幸せになれます。
ありがとう。
さようなら。
どうぞ安らかにおやすみください。
2013年3月14日木曜日
「か゚」はどう読むか。
午後、ちょっと席を外した隙に、ネコがMacのキーボードに乗って文字パレットを開き、わけのわからない文字を表示していた。
ひらがなの「か」に「丸」だ。
結構長いこと日本人をやってきたけれどもこんな字はまったく読めないわけで、それをTwitterに書いていたら、夜になって救世主が現れ、正解を教えてくださった。
なんとこれは「鼻濁音」 を表すための文字なのだと。
そうかそうなのか。ちっとも知らなかった。
鼻濁音じたいは知っている。
長らく小学校の教員をしていた祖母に、子供の頃よく言われた。
「が、ではないの、んが」
この「んが」のところがいわゆる五十音では表現できないわけで、あえて書くなら小さな「ん」に続けて「が」とするとそれっぽいニュアンスなのだが、実際は「が」と書くことになるから文字の上では違いがわからない。
祖母がぼくに教えたということは、昔は小学校で鼻濁音とその使い方を教えていたのだろうか。現代の学校でどう教えるのか知らないし、自分がどう習ったかも覚えていない。
そういえば「お」と「を」の違いもよく言われた。
「お、ではなく、うぉ」
祖母の声と口ぶりを今でも覚えてる。
文字だけでは伝わらない言葉。
それを何とか伝えよう、そして世に残そうとあがいた成果のひとつが「か゚」だとすれば、これは言葉に対する愛の証ではないか。
そんなことを思った。
ひらがなの「か」に「丸」だ。
結構長いこと日本人をやってきたけれどもこんな字はまったく読めないわけで、それをTwitterに書いていたら、夜になって救世主が現れ、正解を教えてくださった。
なんとこれは「鼻濁音」 を表すための文字なのだと。
そうかそうなのか。ちっとも知らなかった。
鼻濁音じたいは知っている。
長らく小学校の教員をしていた祖母に、子供の頃よく言われた。
「が、ではないの、んが」
この「んが」のところがいわゆる五十音では表現できないわけで、あえて書くなら小さな「ん」に続けて「が」とするとそれっぽいニュアンスなのだが、実際は「が」と書くことになるから文字の上では違いがわからない。
祖母がぼくに教えたということは、昔は小学校で鼻濁音とその使い方を教えていたのだろうか。現代の学校でどう教えるのか知らないし、自分がどう習ったかも覚えていない。
そういえば「お」と「を」の違いもよく言われた。
「お、ではなく、うぉ」
祖母の声と口ぶりを今でも覚えてる。
文字だけでは伝わらない言葉。
それを何とか伝えよう、そして世に残そうとあがいた成果のひとつが「か゚」だとすれば、これは言葉に対する愛の証ではないか。
そんなことを思った。
2013年3月13日水曜日
偶然の中にある、やんわりとした何か。 - Zapuniプロジェクトの映像作品「blossom」を見て -
震災で被災した地域や子供たちを支援するチャリティ団体のZapuniが制作して3.11に公開したというアニメビデオ「blossom」を見て朝からちょっと泣いた。
最近はもう涙腺こわれっぱなしだからさ。
三回見てようやく鼻水止まった。
そしたらあるシーンに、見覚えがあることに気がついた。
これ、一昨日見たばかりだ。
実写で、いや、肉眼で。
そのときiPhoneで撮ったのがこれ。かなり拡大してるけど。↓
一昨日は3月11日。
ひとりで海にいたら、14:46の汽笛のあと一群のカモメがやってきて、輪になって空に昇っていった。そしてじきに太陽の光の眩しさに吸い込まれて見えなくなった。それがそのときの感情と相俟って、強く記憶に残ったんだ。[★]
そしたら今日見たアニメーションにこれとほとんど全く同じシーンがあったので、制作者もこういう光景を見てあれこれ想像したのかなあと思いつつ、同じ3.11という偶然の中にある、やんわりとした何かを感じたりしたわけです。
実際にあんな風に太陽を取り囲んで飛んでいたら眩しくて見えたもんじゃないとは思うけれども、そこはまあ演出として、良い映像でした。
2013年3月9日土曜日
惑星アブノーマル「月夜海水浴」
またなんか出たみたい。
惑星アブノーマル、という女性二人組のバンドだ。
ファーストアルバムの「何でも無い凶器」 をいま全部聴き終えたところ。
いわゆる不思議ちゃんかと思ったら、不思議は不思議だけど歌も演奏もタイトでしっかりしており、休日の朝に小気味よく聴けた。
椎名林檎(東京事変じゃなく)聴いたあとなんかには違和感なくすっと入ってしまう雰囲気だけど、二曲目の「フラレ唄」なんか歌い出しから「またふられちゃった!」とくるもんだから、かわいくて仕方ない。
とっくの昔にわかってたのに
私は特攻隊
涙の海を さあざぶざぶ泳げ
日本よ沈め
・・・
またふられちゃった
懲りない女
夜中にふらふら
マンホール探す
そうだなあ、ふられちゃうかもなあ。
でもいいんじゃないか。わかってやってるんだし。楽しそうだ。
歌はアレックスたねこ、鍵盤はテナ・オンディーヌ、だそうだ。
このトーンでアレックスとなると"時計じかけ"のアレックスを思い起こさずにはいられないんだけどほんとのところはどうなんだろ。
2013年3月2日土曜日
ハルカトミユキ「ドライアイス」
こないだから聞きまくってるハルカトミユキ。
まもなく2枚目のEPが出るんですよ。
今回のタイトルもいいです。
「真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。」
ええ、もうiTunes storeに予約してあります。
発売されたら自動的にDLされるんですよね。
便利な世の中ですなあ。
3.13、待ち遠しいです。
*追記
3月6日 0:05にAppleから入荷のメールがきた。早いのね。
とってもいいですよ。聴き入ってます。
2013年2月21日木曜日
ハルカトミユキ「絶望ごっこ」
どこかで聞いたような
美しく薄っぺらい言葉を並べて
陶酔してる
気持ちいいだろう。
ずいぶんひさしぶりに、突き刺さる唄に出会ってしまった。
この数日でもう何十回も聞いている。ほんとに何十回も。
EPのタイトルが 「虚言者が夜明けを告げる。僕達が、いつまでも黙っていると思うな。」だったし、 字面で「ハルカ・トミユキ」なる男かとも思ったがそうではないとすぐわかり、とりあえず曲名に惹かれて試聴して、迷わず買った。
アーティストに対して「〜に似てる」というのは失礼だからそういう意味ではなくて、じぶんの中の揺れっぷりが何に似てるかと考えたところ、たぶんこれは、鬼束ちひろを初めて聞いたときに似てる。
無防備な姿でもう一度言ってみろよ
安全な場所でいつも守られてるくせに。
散々嫌った後で味方になってくれよ
今日は暖かいな、ここは平和だな。
なんということをいうのだろう。
一曲目の「Vanilla」から最後の「絶望ごっこ」まで全部いい。
というわけで、もう一回アタマから聞こう。
2013年2月19日火曜日
「事故・事件の被害者代理人制度」みたいなもの、必要じゃないすか。
この記事を読んで思いました。↓
「世間の関心が高いので是非取材したい」……。
なんだかなあ。
この手の議論のたびに思うわけですが、こういったマスメディアの思い上がりに鉄槌を下すには、「世間の関心はそんなところにはない」という意思表示を世間つまり市民の側がはっきりとする必要がありますね。
マスコミが振りかざす「知る権利」や「報道の自由」というのは、いまや暴力になりつつあるわけで、それを止めさせるには「世間」のほうが「見ない」「聞かない」「買わない」を徹底しなければなりません。
でもしかし、下世話な興味というのは高潔な人の中にもあり、ましてや高潔でない人などはそれだけで人間ができているようなもんだから、実際のところ、きっと止められません。当然のことながらマスコミ側が自主規制などするわけがない。断言できます。絶対にないです。
ではどうするか。
迅速かつ簡便に利用できる被害者/当事者保護の仕組みを作るしかないのではないかと思います。具体的に言えば「対マスコミ 事故・事件被害者代理人制度」とか。
何か事が起きたときにすぐ依頼できて、その後の取材を含めた全てのコンタクトは代理人を通せという。被害者側も何か言いたい事があれば代理人を通じて声明を出すから直接取材しに来るな。そういうこと。
日本では大きな事件になると弁護士が代理人として立つことが多いけれども、それは裁判になってからの話がほとんどなわけで、一般人は日常的に弁護士とつきあってるわけじゃないし、個人的に依頼するのはたいへんだ。まして事件の直後などそんな余裕はないし、費用だって心配だ。となれば、もっと素早く簡単に利用できる制度があったほうがいいなと。
それをどう実現するか。やっぱり保険会社が乗り出すのが妥当でしょうね。
例えば傷害保険の契約に「事故や事件で被害にあった場合の対外対応代理人制度」を付け足す。で、運悪く事故・事件に巻き込まれた際はすぐに保険会社に連絡して代理人を立ててもらい、保険会社は代理人となったことを公的に宣言する。契約者宅ではドアに「今後一切の連絡は代理人たる●●●保険へ。」と貼り出して一切をシャットアウトする……というような方法で。
交通事故の示談交渉などを保険会社が行うのは当たり前になっているので、その仕組みを応用して、こういうときの代理人もつとめるのはどうか、という話です。
事故・事件で取材されるというのは保険契約者全体から見ればかなりのレアケースだから、ひとりひとりの負担額はごく小さくても、保険会社的には十分な商いになるのではないでしょうか。毎月100円の追加で家族全部に適用されるとか。あってもいいと思うんだよなあ。
ただしこれにはおそらく新しい法律が必要で、「いったん代理人宣言をした後は、双方(取材する側される側)がそれを守らないと違法」としなければならないでしょうね。代理人の資格や権限の範囲も決めないといけない。
また、これを逆手に取った悪者が出る事も容易に想像できるから、そこのところは工夫も必要かとは思います。
でもまあ細かい事はさておき、そのぐらいやらないと、いつ自分の身に「暴力」が降りかかってくるかわからないご時世なので、こんな制度ができたらいいなと、ぼーっと考えてました。
冷たい雨を眺めながら。
なんだかなあ。
この手の議論のたびに思うわけですが、こういったマスメディアの思い上がりに鉄槌を下すには、「世間の関心はそんなところにはない」という意思表示を世間つまり市民の側がはっきりとする必要がありますね。
マスコミが振りかざす「知る権利」や「報道の自由」というのは、いまや暴力になりつつあるわけで、それを止めさせるには「世間」のほうが「見ない」「聞かない」「買わない」を徹底しなければなりません。
でもしかし、下世話な興味というのは高潔な人の中にもあり、ましてや高潔でない人などはそれだけで人間ができているようなもんだから、実際のところ、きっと止められません。当然のことながらマスコミ側が自主規制などするわけがない。断言できます。絶対にないです。
ではどうするか。
迅速かつ簡便に利用できる被害者/当事者保護の仕組みを作るしかないのではないかと思います。具体的に言えば「対マスコミ 事故・事件被害者代理人制度」とか。
何か事が起きたときにすぐ依頼できて、その後の取材を含めた全てのコンタクトは代理人を通せという。被害者側も何か言いたい事があれば代理人を通じて声明を出すから直接取材しに来るな。そういうこと。
日本では大きな事件になると弁護士が代理人として立つことが多いけれども、それは裁判になってからの話がほとんどなわけで、一般人は日常的に弁護士とつきあってるわけじゃないし、個人的に依頼するのはたいへんだ。まして事件の直後などそんな余裕はないし、費用だって心配だ。となれば、もっと素早く簡単に利用できる制度があったほうがいいなと。
それをどう実現するか。やっぱり保険会社が乗り出すのが妥当でしょうね。
例えば傷害保険の契約に「事故や事件で被害にあった場合の対外対応代理人制度」を付け足す。で、運悪く事故・事件に巻き込まれた際はすぐに保険会社に連絡して代理人を立ててもらい、保険会社は代理人となったことを公的に宣言する。契約者宅ではドアに「今後一切の連絡は代理人たる●●●保険へ。」と貼り出して一切をシャットアウトする……というような方法で。
交通事故の示談交渉などを保険会社が行うのは当たり前になっているので、その仕組みを応用して、こういうときの代理人もつとめるのはどうか、という話です。
事故・事件で取材されるというのは保険契約者全体から見ればかなりのレアケースだから、ひとりひとりの負担額はごく小さくても、保険会社的には十分な商いになるのではないでしょうか。毎月100円の追加で家族全部に適用されるとか。あってもいいと思うんだよなあ。
ただしこれにはおそらく新しい法律が必要で、「いったん代理人宣言をした後は、双方(取材する側される側)がそれを守らないと違法」としなければならないでしょうね。代理人の資格や権限の範囲も決めないといけない。
また、これを逆手に取った悪者が出る事も容易に想像できるから、そこのところは工夫も必要かとは思います。
でもまあ細かい事はさておき、そのぐらいやらないと、いつ自分の身に「暴力」が降りかかってくるかわからないご時世なので、こんな制度ができたらいいなと、ぼーっと考えてました。
冷たい雨を眺めながら。
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